【遺書】叶うなら彼に、永遠の幸福を【担降りブログと呼ばないで】
ロザンのYouTubeで努力について語られていた内容にハッとした。
菅さんにとっての「努力」の定義は、
「自分にとっては楽だけど、他人にとってはしんどいこと」
だそうで、自分からみても他人から見てもしんどいことをやるのが努力だと語られがちだが、菅さんにとってはそうじゃない、ということだった。
それでは続けられない、と。
(私はここで、「継続」もまた「努力」を構成する要素だと改めて気付かされた)
これを受けて、とても感心した様子の宇治原さんが最近感じた違和感についてお話しされていた。
「コロナの影響で、甲子園が中止になってしまったという出来事について、高校球児が可哀想だという話題がいろいろなメディアでとりあげられる。
もちろん、そこを目指して頑張ってきた高校球児たちは可哀想だし、悔しい気持ちも絶対にあると思う。
だけど、一番最初にあるのは“野球が好き”という気持ちであって、その部分を飛ばしてただ可哀想だと語られてしまうことには違和感がある。
“苦役を強いられてきた人たちが、最後の果実(甲子園)を奪われてしまった”
かのような論調には違和感がある。
大会が中止になって、残念で可哀想だとは思うが、これまでの高校生活で野球をやってきて、楽しかった思い出が奪われてしまうわけではない」と。
この動画の大半の視聴者が抱く感想とは全く違うとわかった上で書くけど、
私が5年間手越担だったことを、努力したねって、自分で認めてあげていいなって思った。
もちろん一番の望みは、“続いていくこと”だったり、“テッペン獲るところを見届けること”だったり、“STORYの完結に立ち会うこと”だったり、手越くんと叶えなきゃ意味がないと思っていた身としては大変つらいのだけど。
でも、それが手に入らないからって、何もかもが無駄になるわけではないし、
私はちゃんと目指す場所に向けて、その時できること・他人から見たら「よくやるわ」みたいなことを望んでやってきたし、たった5年かもしれないけれど継続した自信はある。
プロにならなかったら野球部に入る意味がないのか?→No
なら、
いつか気持ちに区切りがつくならアイドルを愛する意味がないのか?
――これだってNoだ。
最後の大会がなくなってしまっても、去年までの大会に全力で臨んだし、
仲間と呼べる人間が周りにいるし、
書ききれないくらいの最高の思い出だってできたし、
そして、これから何だってできる。
この経験を持ったうえで、何だってできる。
高校球児たちがコロナウイルスを恨み、憎むように、
私は”手越くんが人間だったこと”を恨み、憎むしかないのかもしれないけれど、
高校球児たちと違って、私は人間だから手越くんが好きだったのだ。
この後、どんなことがあっても、私の5年間のかけがえのない「正しい努力」は
ちゃんとNEWSに届いてたって信じられる。
アイドルを愛する気持ちと、仲間と、たくさんの経験が私に残っているように、
絶えず贈り続けた愛はNEWSに届いてるに決まっている。
それでいいんだ。
手越くんとの青春は終わったけれど、
でも、私自身の終わりなき青春は確かにここに在る。
NEWSが出会わせてくれた仲間と、手越くんが教えてくれた感情と、
そういうものをちゃんとずっと大切に持っていることが、
わたしの青春を続けさせてくれるのではないだろうか。
自分が愛し、守りたいと思ったひとを。
幸せにするんだと信じて疑わなかったことを。
恥ずかしい過去と呼ぶなんて、ダサすぎる。
そんなダサい人間じゃない自分で本当に良かった。
私がわたしを好きでいられるってことは、間違いなく、
手越くんを選んで良かったんだ。
ここでお別れだけど、ちゃんとお別れしても生きていける。
ちゃんと自分のこと好きなまま、あなたとバイバイできる。
その上で、気が狂うほど、たったひとり、手越祐也という孤高のアイドルを、
愛して、愛して、ちゃんと愛してここまでこれました。
ありがとうございました。